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◆ジーン・セバーグ――ヌウヴェル・ヴァーグ・青春のマドンナの<残照>

ジーン・セバーグ「勝手にしやがれ」女優としては存分に成功したとは言えない生涯でした。最後の亡くなり方もパリ郊外の駐車していた車の中での変死、無念の部分も感じられる可哀想ともいえる死(40歳)でした。

しかし、ジーン・セバーグは記憶に足る印象の深い女優です。
オーディションで見出されたオットー・プレミンジャーの「聖ジョーン」('57未輸入)で演じたジャンヌ・ダルクのためのヘア・カットが、その後の彼女を運命づけたともいえる女優人生です。そのデヴュー作品は興行でも失敗し、プレミンジャーともそりが合わなかったようですが、契約が残っていて出演した「悲しみよこんにちは」('57)のセシル役のため、その髪型はセシル・カットと命名されました。


当時の若者の最先端とも言えるティーンを描いたフランソワーズ・サガンの心理小説からすれば、いかにもアメリカ映画っぽくて、成功した映画化とはいえませんでしたが、ジーン・セバーグは輝いていました。
「勝手にしやがれ」ポスターそのセバーグを主演にしジャン・ポール・ベルモンドとともに脚光を浴びたのが「勝手にしやがれ」('59)です。フランソワ・トリュフォーが脚本を書き、ジャン・リュック・ゴダールが監督し、クロード・シャブロルが監修に名を連ねたこの映画は、既成の映画文法を打破するヌウヴェル・ヴァーグを象徴する作品で、フランスの若き映画人の輩出のエポックともなった記念碑でもあります。

ヌウヴェル・ヴァーグが産んだ女優(ミレーヌ・ドモンジョも良かったですが…)の中でも、白眉といえる魅力で、青春期の理想の恋人をシンボライズしたようなヌウヴェル・ヴァーグのマドンナを決定づけた主演だったのです。


その後ロング・ヘアの彼女を見ると、いかにも女っぽく、色っぽい風情もおおいにあったのですが、代表作というと、やはり「勝手にしやがれ」です。
作品にも恵まれなかった部分もありますが、しかしもうひとつ忘れてならない作品が、「リリス」('64)です。

ジーン・セバーグ「リリス」精神に破綻をきたした女性を演じたこの作品はジーン・セバーグを見るに見逃せない作品で、共演はウォーレン・ベイティ、彼女の恋人でもセラピストでもある役柄で交錯します。
ロバート・ロッセンとしても「ハスラー」('61)の次の監督作品、死の2年前の作品で、興行を心配されて輸入されなかったのでしょうが、だいたい渋めの上質な作品を造り続けたロッセンとしても、評価されるべき作品のひとつでしょう。

より痛々しく感じるのは、モノクロームの映像にやはり美しくその姿をとどめ、ここでは波うつロング・ヘアがいかにもその精神の振幅を象徴するかの如き女優のセンシビリティに圧倒されるからです。

しかもなお後にジーン・セバーグはそのドキュメント・フィルムで、「私はほんとうにリリスになった」と述べていたりするのを見てしまうと、その痛々しさはいや増します。
ジーン・セバーグというと、その溌剌たる容姿とは裏腹に実人生を懸命に切り開こうとしていたような姿が眼に浮かんでなりません。
ヌウヴェル・ヴァーグのマドンナだけでは、あまりに惜しい女優でした。


<ジーン・セバーグ>Jean Seberg(1938.11.13〜1979.9.8)フィルモグラフィ
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◆ロミー・シュナイダー――藍から紫の似合う女への<旅路>

ロミー・シュナイダージュールス・ダッシンの「夏の夜の10時30分」('66)が、ロミー・シュナイダーの、翳りのある表情のの魅力を発見した最初であった。

ピエール・グラニエ・ドフェールの「離愁」('73)では哀しみにしっとりとした微笑みが寄り添っていた。遅れて公開されたヴィスコンティの「ルートヴィヒ」('72)には ロミーの自負に満ちた乗馬服姿があった。

以後、「暗殺者のメロディ」('72)「追想 」('75)「夕なぎ」('72)、いずれにも静かな自信と深い落ち着きがたたえられた魅惑だった。


「夕なぎ」ひたいに感じられるあまりにも聡明過ぎる鋭さと、まぶたに押え込まれた憂いとが、頬から顎にかけての緊張に豊かに稔って、口元の優しさになだれ込む。
「離愁」では束ねた髪の飾り気の無さがいっそうロミーの抑制された真情を伝えた。既にほんものの不幸を見てしまった瞳。その瞳が相手のまなざしを包む時、言葉はたちまち意味を失い形骸と化する。
幸福などというものが、或るむしろ気の迷いに過ぎぬことを知ってしまったそれは瞳であった。


「離愁」おとなの女になるにはこれほどまでの犠牲を払わねばならないのか、そんな風にも感じさせる忍苦と、それを見事にしのいだ情念の落着き。
まっすぐに伸びた鼻梁が、誇りかに万感をにじませる。これほど寡黙でこれほど多くの感情の充溢。ああ、見事だ、と想う。

孤独が似合う女、あるいは孤独が美しく見える女、それともたたずまいそのものが孤独に拮抗し得る女、ほとんど女の孤独といえばいじましさと表裏を成してしまうが、ロミー・シュナイダーの場合、孤独は彼女自身の人生に拮抗し得ている数少ない例外である。


「離愁」ロミー・シュナイダー離愁」のとき、ロミー36歳。華やかな<浮薄>から沈黙の<舞踏>へ。ただの美しい女から、女の美しさへの出会い。俳優の両親から巣立ったお嬢さん女優から、市井のひとりの女の息づかいをにじませる女優へ。それがロミー・シュナイダーの道程だった。


グラニエ・ドフェールの「離愁」の映像はなんとそんなロミーのひそやかな変身を照射していることか。その古典的なフォームが、大戦下のレジスタンスという状況が、抑制しようと思えば想うほど洩れ出る情熱のほとばしりが、そして何よりロミーの美しい感受の悲劇性が、あぶり絵のように浮き出ていたのではないだろうか。

女に生まれるのではなく、女に成る、その美しい例証がここには在る。
参考:若くしての、その死。

<ロミー・シュナイダー>Romy Schneider(1938.9.28〜1982.5.29)フィルモグラフィ
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●ロミー・シュナイダーの本●
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◆オルネラ・ムーティ――放逸と倦怠の狭間の<夢魔>

オルネラ・ムーティヴィスコンティ亡き後、奥行きの深い、馥郁たる19世紀ロマンを堪能した。
それがフォルカー・シュレンドルフの「スワンの恋」('83)である。
シュレンドルフは「ブリキの太鼓」('79)はもちろん、「カタリナ・ブルームの失われた名誉」('75)でも狂気への明晰な視線が印象的であった。

「スワンの恋」はシュレンドルフ一流の生の狂気に連なるものだが、それも恋情へのそれである。
対象物は、オルネラ・ムーティ、堂々たる快演である。プルーストの映画化としてもこれだけの充実はちょっと見れまいという作品である。


オルネラ・ムーティ「スワンの恋」男を翻弄する肉体というのはいくつもあるが、ここではそれだけではいけない。
女の掴みどころの無さ,それも性格の捉え難さとともに肉体の捉え難さも同時に孕んでいなければならない。
しかも肉体の存在感は充溢しながら、官能の爛熟と退廃をも内に潜めていなければならない。
 
いわば女優冥利というべきこのオデットに扮したのがオルネラ・ムーティ、1955年生れというから撮影時28歳、男の玩具などにはなりようもない女盛りである。
魅せられてしまうのはむろんカトレア遊びの惑溺に忘我する主人公ともども、オルネラの融通無碍な、逆に男が玩具視されかねない無頓着さである。


オルネラ・ムーティ「スワンの恋」カトレア遊び男を翻弄する女の典型として、プレヴォの<マノン>がいるが、オデットもまた同じ血脈の女と言ってよく、遂に男が求めつつ永遠に占有感を味わえぬまま餌食となりさる類の女である。

その怠惰、その奔放、乱倫、身勝手、どれも魅力とならざるはない。
映画「スワンの恋」の魅力も正しくそこにあって、ヒロインの謎めいた神秘の空間をさ迷う私たちもまた、オデット=オルネラ・ムーティのいけにえである。

おそらく「スワンの恋」はオルネラ・ムーティの代表作に違いない。
ドミニク・サンダの「初恋」('71)、ナスターシャ・キンスキーの「テス」('79)のように、ここには成熟に向かう直前の極彩色の<女>がいる。
その<女>は女性自身、ほとんど自意識を持たないで内にある種類の才能である。

 
  おそらく彼女は自分でも知らずに、自分の中の<女>というものに操られて、
  そう振舞っているに違いない。
  彼女が悩ましく,ねばっこい、官能のむずがゆい甘さを味あわせるのは、
  おそらくこうした<女>というものであるためだとしたら、
  当然、<女>がもたらす残忍さ、冷淡さ、平然としてつく嘘、虚栄心、競争心、
  自己本位、意志の弱さを私は容認し、我慢し、耐えつづけなければならないのではないか。
  それは美しい桜草のある種類のものが、外観の美しさからは想像できない毒素を
  持っていて、近づく人の皮膚にかぶれを惹き起すのと同じではないか。
     
                          (辻邦生「聖路加病院まで」より)

こんな<女>の、掴まえようもない、だが確実な魅惑はオデット=オルネラ・ムーティの夢遊の存在感に重なるものなのである。

◎オルネラ・ムーティ補記――美少女を超える美少女!
<オルネラ・ムーティ>Ornella Muti(1955.3.9〜)フィルモグラフィ
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◆グレイス・ケリー――典雅なる気品と節度の<女王>

グレイス・ケリーこんな女性が傍にいれば近づきがたい雰囲気で、恐れ多いのではないかという感じもある。それほどにその怜悧な品格を持った美しさは、あたりをある種の緊張で包む。
グレイス・ケリーは、モナコ公国の女王になったから、その気品と節度が備わったのではなく、もとよりあった気品と節度が女王に押し上げてしまったのである。

王妃になるまでさほどの時間はかからず、作品数も10本をわずかに数えるだけだ。
なかでヒッチコックの'54年の作品である「泥棒成金」「裏窓」が群を抜いたその美しさを見事に刻印しているし、ジョン・フォードもその前年にエヴァ・ガードナーとの対比で抜擢した「モガンボ」で、早くもその資質を明確にしていた。


グレイス・ケリー「喝采」しかしグレース・ケリーがアカデミー主演女優賞を受けたのは、もっとも優雅ではない、
もっとも貧苦にまみれた、もっとも化粧ッ気のない「喝采」('54)においてであった。
「喝采」は今見直しても、女優としてのグレース・ケリーの力量が知れる見事な名演である。この作品が無ければ、彼女の女優としての評価はいま少し割り引いたものになっていたに違いない。

「誠実!意志強固!献身的! 君のそこが好きだ」
バーニー・トッド(ウィリアム・ホールデン)はジョージー(グレース・ケリー)に言う。
「喝采」のグレイスは脚本(ジョージ・シートン)の素晴らしさもさることながら、偶然ではない演技の手応えを感じさせる。

その表情は内燃する感情を低く抑えた調子の高いもので、激しながらヒステリカルにならず、涙をにじませながら芯の強さを覚えさせ、しかも自己放棄の美しさが終章に輝きわたるのは、緩急自在の厚みが、その演技に備わっていたからである。


グレイス・ケリー「泥棒成金」その輝きわたる美しさにまぎれてともすれば見落としがちであるが、その短い間の出演作品のどれも彼女が凡庸であったという映画はひとつもない。「喝采」のやや生活苦に疲れた人妻と、「泥棒成金」のイヴニング・ドレスに身を包んだ令嬢との幅の内にあるものは、貧富に惑わされない気品と節度に違いない。

グレイス・ケリーが王妃となっても映画への誘いは多くあったと言う。
ことに終局ティッピー・ヘドレンで映画化されたヒッチコックの「マーニー」('64)などは、最後までヒッチコックの執心、なかなかのものであったとも言われる。

グレイス・ケリーの女性的資質は「モガンボ」において、ジョン・フォードの磊落な男女関係の原像、一方でじゃじゃ馬で負けず嫌いの<ヴァンプ>エヴァ・ガードナーを配し、その対極に冷たいほどの美しさを持つグレースの<エレガンス>を配することで、男が如何に悪戯で野性に溢れた性情を持とうとも、どこかおおもとのところで回帰してしまう女性的資質の開示は、「喝采」の誠実で意志強固で献身的な女性像ともオーヴァラップする、美しく、しっかりもので、正義感に溢れた、アメリカ映画が永く追い求めてきた、それは理念的原像でもあったのである。


<グレイス・ケリー>Grace Kelly(1921.11.12〜1982.9.14)フィルモグラフィ
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◆ジョディ・フォスター――鮮烈な判断力、体感を携えた<理知>

ジョディ・フォスタースタイルから言っても美人度から言っても、ジョディ・フォスター以上の美形はいくらもいるだろう。身長から言っても小柄で、体型のそれぞれのパーツもまた飛び抜けた部分はほとんど皆無である。
しかし、ジョディは美しい。圧倒するばかりに美しい。小柄なのに大きく活動的で、射るように他を魅惑する。その存在の確固としたありようこそ、多くの他の女優に抜きん出るものだ。

少女時代からありきたりではなかった。そのありきたりでない特異な少女が、さらに脱皮したのが「告発の行方」('88)だろう。そこにはおとなの視線さえ、敢然、拒否する明確な意志が潜んでいた。いや。拒否に対してさえなおたじろがぬ個性が開花していた。


ジョディ・フォスター「告発の行方」その圧倒的な、きらきらときらめくクリスタルの輝きをワンマンショー的注目度で全開してくれたのが「ハートに火をつけて」('89)である。
ギャング(デニス・ホッパー)に誘拐されながらの、道中の丁々発止を映画の中心に置いたこの作品は、対する相手役が曲者俳優のデニス・ホッパーだけあって一筋縄で行かないのは先刻承知、互いがその力量を試しつつ認め合う様がヴィヴィッドに展開される。

その緊張度と親密度の兼ね合いのバランスがなかなかのみものというべきところで、本人はこの作品を気に入っていない様子であるが、その聡明さは隠すべくもない。
シャワーシーンや自演のストリップショーのおまけまである意外に小気味いい佳品であることに疑いはない。(おまけに監督でもあるデニス・ホッパーがこの作品を気に入らず、アラン・スミシー・フィルムになっているのだが……)


ジョディ・フォスター「ハートに火をつけて」だがご本人たちが気に入ろうが気に入るまいが、デキは決して悪くない。
ジョディの目を引く効能とは、何よりその溌剌たる肉体の胎動なのであるから、その瞬時として気の抜けないワンマン・ショー的画面に固唾を飲んで見守るにしくはない。

そして「羊たちの沈黙」('90)である。
多くを語られ尽くされた感のあるこの作品はもはや付け加えるべき何もないようでもあるが、ジョディが主演したことでこれはエリートとアウトサイダーとの息詰まる思念の末の、争闘と共感の物語となったことは言い添えておきたい。

エリートとはFBI実習生であるクラリス・スターリング(ジョディ=バークレー、コロンビア、プリンストン、ハーバード、スタンフォードすべて合格。イェール大学卒業)、アウトサイダーとは連続殺人犯ハンニバル・レクター(アンソニー・ホプキンス)である。

ジョディ・フォスター「羊たちの沈黙」あまりにも差異のある境涯に見えてクラリスには父の非業の死(ジョディ=両親の幼き折の離婚)、レクターには優れた精神科医という背景がある。
交錯する暗示と背景の内には、緊迫した生命がいつも対峙しなければならない理知の光が常に宿っている。ジョディが適役であったのは実にそこのところだ。映画が大きく見えるのも実にそこのところだ。

監督作品である「リトルマン・テイト」('91)「ネル」('94)を見てみると生身のジョディの趣味がわかって楽しい。これはジョディの「思春期」「野性の少年」、トリュフォー・ファンの血統書というべき答案であろう。
頂点に登り詰めてからの主演作は、いずれもがある種ワンマン・ショーで、その存在感によってこそ作品も支えられているといった趣だが、さらに女優としての後半期、その身の処し方にもさらなる理知が投影されるに違いない。
インサイド・マン」(2006)はおそらくその嚆矢となる作品であるだろう。

参考:「フライトプラン

<ジョディ・フォスター>Jodie Foster(1962.11.19〜)フィルモグラフィ
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◆リュドミラ・サベリーエワ――北国の忘却の彼方からの<韻律>

リュドミラ・サベリーエワ2しんしんと降り積もる雪、耳鳴りがするほどの一面の銀世界、ほとんど生命のありかさえ定かではない、極北の風土が生む韻律、雪の慕情、リュドミラ・サベリーエワ

ロシアの女優では、もうこのひと。「戦争と平和」('65〜'67)のナターシャが彼女の20代前半を飾り、28歳「ひまわり」('70)、そして翌年の「帰郷」('71)、可憐、誠実、清楚……どんな讃辞も足りないくらいの、つつましさ。

その芯の強さには凍てつくような寒さが生む、スラブの民族的誇りが漂い、やわな可憐さとは根っこから違う、独特のはりつめたものを、感じさせる。
そうだろう。「ひまわり」の戦乱の中のマストロヤンニの現地妻リュドミラは、故国の正妻ソフィア・ローレンと相対したとき、身じろぎもせぬ自負と相手の心の痛みさえ思いやる優しさとを匂わせて、あの時リュドミラは誇りに溢れた。


リュドミラ・サベリーエワ「ひまわり」2女のヒステリカルな騒々しさの全く無い、ものごとの芯を凝視める静かな湖の深さを覚えさせる、青磁色の瞳。ウクライナの繚乱と咲き誇るひまわり畑こそ、リュドミラの萌えいずる熱情だっただろうか。

寡黙でありながら打ち消すべくもない炎を孕んだひたむきさはあまりにも得難い説得力だった。女の哀切とはこの個性に象徴されるというような可憐さ!

日本で「帰郷」は、その3時間近い長尺の、いかにもゆったりとしたテンポのせいもあって、いまひとつ評判を欠いた映画だが(ほぼ1週間で上映打ち切り、その後見かけることもない。だから全国でこの作品を見た方は大変な僥倖に浴したわけである)、実にそこにこそ「帰郷」の魅力があって、その魅力の焦点深度の中心にリュドミラがいる、という映画だった。


リュドミラ・サベリーエワ「ひまわり」というのも、映画は一人の薄幸の女性を描きつつ、悠々たる”時”の転変を精密にあとづけていて、あたかも“時”がその女性を浸食するか否かの実験、という趣の映画であった。
つまり、そこでリュドミラの魅力とは、いかなる”時”の悪戯にも屈服することなく、
変わらぬ姿勢の正しさを保ち続ける、“時”との闘いの、リュドミラの完璧な勝利を想わせる、リュドミラあってこそ成立した映画だったのである。

変わらぬ姿勢の正しさ、なんて言うだけで、そんなの疲れない? などという軽句が返ってくる日本だから、所詮流行らないせいかどうか、多くの出演作品が輸入もされず、遂に彼女の映画を見る機会は失われたが、この個性を以ってすれば、わが永遠のキャサリン、ヘミングウェイの「武器よさらば」は、やっとその主題をあきらかにしたというべきだろう。


自己犠牲も自己表白もともにその身じまいで伝えてしまう女性、女の聖性を代表するという意味では、故国「罪と罰」のソーニャの血筋の正統を継承するのも、やはりリュドミラであるに違いない。
参考:「戦争と平和」

<リュドミラ・サベリーエワ>Lyudmila Savelyeva(1942.01.24〜)フィルモグラフィ
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◆フェイ・ダナウェイ――青春の嵐を疾駆した<女優>

フェイ・ダナウェイ夢中でフェイ・ダナウェイを、追いかけていた時代を考えると、それが青春の夢想とダブル・イメージになってくる。
青春はある意味で疾風怒濤の時代なのだ。

俺たちに明日はない」('67)フェイ26歳、翌年「華麗なる賭け」「恋人たちの場所」('68)、さらに翌年「アレンジメント」('69)、そして「パリは霧にぬれて」('71)の時にフェイ30歳。そんな年齢も今になって初めて認識する。

あの5年間、フェイはこれ以上ないくらい輝いていた! まさしく旬!ということだったのだ。
「俺たちに明日はない」で共演して共に出世作となったジーン・ハックマンが、実に息長く今も重要な役どころで活躍しているが、たまにフェイもゲストスター的扱いで眼にする事もあってこれはこれでなつかしい。


フェイ・ダナウェイ「華麗なる賭け」今遠くあの時代のフェイ・ダナウェイを想う時、ともに青春を駆け抜けた<戦友>のようにフェイを感じることができる。
当時あんなにも<女>を感じたフェイの上にも時が流れたということだが、街頭に見かけた「華麗なる賭け」の鍔広の帽子、ミニスカートは本当に目立った。

それは「アレンジメント」の社長のデスクの上にミニスカートの脚を投げ出すフェイとともに、キャリアウーマンの先駈けともなる英姿だった。
あの後にこそ<女の時代>は幕を開けたのである。
それゆえにこそ、アーサー・ペンの衝撃はこの女優を各国の名匠が起用するところとなったのである。

この、少女時代から女優になることだけを己の命題にしていたという、フェイの少女から娘への時間に想いを馳せると、或る頂点を極めた女の一種孤絶の哀愁がまぶたに浮かぶ。
もう手垢のついた<自立>という言葉の、文字どおりのありようを、彼女の映画はかつて体現し続けたのである。


フェイ・ダナウェイ「俺たちに明日はない」「俺たちに明日はない」のボニーが、普通の生活を憎んだように、フェイもまた、母ひとり子ひとりの時間に育まれた感性はやはり、<普通>からの飛翔であったろう。

おそらく、彼女の毒とも感じられるバックボーンの内にはそうした暗い執念が潜められていたに違いない。まさしく青春を文字通り格闘して生きるとするなら、俺たちに明日はない!

多くの女優が自己顕示欲によってその職責の力を得ている時、フェイの自己顕示にはそれが自己保存の生命力にも裏打ちされた絶対性を確保していたのである。

あの凄絶ともいえる乱射に息絶えるボニーが鮮烈なのは、そんなフェイの内から噴出する嵐の昂揚のせい、だったかも しれない。

実に生命の必要から生れた生き様ほど激しく信頼できるものはない。
あの時代のフェイ・ダナウェイを優れていい女と感じるかどうかは、そこに身を寄せるか、否かしかないのである。


<フェイ・ダナウェイ>Faye Dunaway(1941.01.14〜)フィルモグラフィ
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◆デボラ・カー――翳にさえロマンスの香気溢れる典雅な<気品>

デボラ・カー'50年代を代表する女優。「王様と私」('56)で魅了されて、次回作を待ち望んだ思春期。
だから、ようやく間に合った、デボラ・カーには遅れてきた世代。
その新作が「めぐり逢い」('57)、小遣いをはたいて駆けつけた有楽座。

いまもそのときのパンフが手元にある。この稿を書くにあたってぜひとも見たかったのが、「情事の終わり」('54)と「誇りと冒涜」('56)だが、いまだに未見。不倫を演じて随一、度重なるアカデミー主演女優賞も遂に受賞に至らず、罪滅ぼしのようにアカデミーは'94年、アカデミー特別賞を授賞。あまりの美貌で演技の巧みが、かえって隠し覆われた、とも言えるのだった。
その不倫を演じた「地上より永遠に」('53)がいまも見られるその片鱗。


デボラ・カー「めぐり逢い」だが、「めぐり逢い」に幾度、感涙にむせんだことだろう。
なんたる優雅な身のこなし、なんたるあでやかな美しさ、楚々として溌剌たるおとなの<女>の高貴に、たじろぐようにティーンエイジャーは見入ったものだった。

以後数十年「めぐり逢い」は座右の映画としてVHSもDVDも手元から手放せない。
歌手とプレイボーイの画家との豪華客船での出会い。絵に描いたような美男美女。
絵に描いたようなエレガンス。見かけはハーレイクインロマンス!

ところが歯も浮かず、お尻もむずがゆくならず、しっとりじわじわと感涙の伏線が鮮やかに終幕、実となって胸を打つ。
シャルル・ボワイエとアイリーン・ダンの「邂逅」('39)も、後年だいぶ経ってから見ました。これも見事におしゃれ。

フランス人のシャルル・ボワイエと、イギリス人のケイリー・グラント、そのそれぞれの特性を生かした名脚本はレオ・マッケリー。
そのオリジナル名脚本をカラーでリメイクしたのも、そのレオ・マッケリー。


これ以外のリメイクは水割りにしか見えない。
デボラ・カーの存在あってこそのリメイク‥‥この溢れんばかりの、典雅なる、しかも上質な色気に日常を忘れ、世の辛苦も忘れ去る。
お色直しのごとく着せ替えられるその衣装のゴージャス、その衣装を着こなしてさらにあでやかなデボラ・カー。

デボラ・カー「クォ・ヴァディス」いかにもロマンスがこの人にふさわしい。カラー女優といわれたその赤髪が、ことば少なく控えめな立居振る舞いからも、ほのかに燃えいずる。コスチューム・プレイの「クォ・ヴァディス」('51)も、あでやかなその片鱗!
英国でとんとん拍子の主演級もさもありなん、だが、ハリウッドに招かれてまもなく、クラーク・ゲーブルの相手役として、同じく新進女優同士でエヴァ・ガードナーと競演した映画「自信売ります」('47)を先頃、拝見。

フィルムの美麗にも感心したけれど、新進女優デボラ・カーの颯爽たる落着きと、この若き3大スターをいま見る嬉しさは計り知れない。このときデボラ26歳。エヴァ27歳。いよいよ前述の「情事の終わり」と「誇りと冒涜」待望。


さらにお奨めはアナトール・リトヴァクの「」('58)、南国でまみえたユル・ブリンナーと、ふたたび戦時下の雪降る極寒の地でまみえる。
といってもミュージカルではない、緊迫する第2次大戦下のシリアスドラマだが、ツィードのコートに身を包んだむしろ地味すぎる衣装のなかでもデボラ・カーは、静謐に輝いておとなの女の矜持を指し示していた。

そう、スターが、夢見られる対象として確かに在ったその時代の、誇りと光背をあでやかに指し示し続けた、エレガンスの代名詞の、そのあでやかなフィルモグラフィである。
参考:「黒水仙」 「白い砂」 「回転」

<デボラ・カー>Deborah Kerr(1921.9.30〜2007.10.16)フィルモグラフィ
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◆マリリン・モンロー――性の頂点まで昇りつめた<童女>

マリリン・モンローマリリン・モンローの洗礼を受けたのは「彼女は二挺拳銃」('50)が最初、幼年期の幸運と言うべきだろう。
既にマリリン・モンローは、神話だった。アメリカの神話を代表していた。

マリリンの死は1962年。いまマリリンの死を振り返れば、それが<アメリカの神話>の死、であることがわかる。一年後ケネディが撃たれた。
以後アメリカは混迷と焦燥の時代を迎え、それが永く続くこととなる。


マリリン・モンロー「荒馬と女」最後の作品「荒馬と女」('61)に、こんな台詞がある。
クラーク・ゲーブルとマリリンの対話である。

「あんたは綺麗だ。眩しいくらいだ。都会の他の女みたいに高慢ちきなところがない……おれには天使みたいに思えるぜ。そばにいることさえ不思議な気がする……でも、何が哀しいんだい。おれには時々あんたがひどく哀しそうに想えるが……」    
「そんなこと言われたのは初めてよ。しあわせそうだって、いつも言われるの」    
「あんたを見ると男はしあわせを感じるからだろう」      
「じゃあ、あなたは感じないの」      
「いや、男なら誰だって感じるさ」
こんな台詞が全編に散りばめられてある。


いわば「荒馬と女」は、マリリンのマリリンによるマリリンのための映画だ。
もと夫君アーサー・ミラーの脚本だけあってマリリンのエキスが充満している。
その天真爛漫、無垢が豊満な肉体によく似合って、今では存在を疑われてしまうような、性格の美しさをのびのびと演じて見せる。

キャサリン・へップバーンがいみじくも言った「私は男女関係の幸福な時代に生きた
その、まだ男と女の間に古典的なセオリーが通用していた時代だった。
マリリン・モンロー3古き良き時代など、実は何処にもなく、人の夢想の中にしかないことが、いつの時代でもあきらかであるにしても、マリリンのような存在を自らの夢想の内に持つことを、われわれはいつ自らに禁じてしまったのだろうか。


ふたたび今度はモンゴメリイ・クリフトとの台詞。
「俺が知りたいのは、あんた、誰を、何を、信じてんのか。……そこんとこさ」
「……わからない……ただ。いつも期待してるわ。明日起こることに。……明日には何かがあるって。誰かの約束にすがったりすべきじゃないもの」

<マリリン・モンロー>Marilyn Monroe(1926.06.01〜1962.08.05)フィルモグラフィ
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◆マレーネ・ディートリッヒ――女の自立の颯爽たる<風格>

マレーネ・ディートリッヒ世界一、紫煙とグラスの似合う女。
映画の中のディートリッヒが際立った魅力で輝いていたのは、映画がその黄金時代を迎える1930年代、その時代であった。


マレーネ・ディートリッヒ3マレーネ・ディートリッヒ。その名前だけで、風格といい、気品といい、たぐいまれなる永遠の名称とでも言いたい語感を携えて屹立している。
ジョゼフ・フォン・スタンバーグとのロマンスもさることながら、いまやまさに歴史に洗われて、その鮮度、輝度、光度をいや増すがごとく、今なお見ることのできる作品から光背を帯びて存在している。

クラシックでありながら、見るものにラディカルな挑戦を感じさせる、こんな女優はちょっと見当たらない。


'30年代のディートリッヒ、全体にふっくらとしてまだ伝説と化していない生身のディートリッヒ、時代を掴み、まるごとその存在の醗酵が純粋に投影されたディートリッヒ、しかもスタンバーグやエルンスト・ルビッチといった映画史を飾る名伯楽のもとで、いかなる時代のパーソナリティであり得たかを検証したい誘惑に駆られてしまうのだ。

マレーネ・ディートリッヒ2何と言ってもディートリッヒは大戦時の妖花であって、その戦時下で、男とゆるぎなく対峙し、きわめて意志的な生き方を画面でも貫き、その立居振舞いの、いかにも颯爽とした、いさぎの良い風情が役柄にも一貫した女優で、群がり寄る男たちとの切っ先鋭い応接や交歓、あるいは危難の裁き方の鮮やかさ、堂々とした所作の中に見せる衣装の捌きにすら、圧倒的な魅惑が隠されているのだ。
            

ディートリッヒと猫'30年代白黒映像の白眉とでも言いたい光と影が、ヒロインを取り巻く溢れんばかりの陰影となって、戦時下に生きた女の矜持を浮き彫りにして見せてくれる。
もとよりドイツ出身女優独特の、しなやかに骨太い芯の強さ、堂々とした身ごなしは、
後に現われたドイツ女優の系譜を見ると、実はディートリッヒを持って嚆矢とするのではないかと言いたい原型がそこにはある。

たとえばそれはニュー・ジャーマン・シネマの旗手ライナー・ヴェルナー・ファ スビンダーの作品「マリア・ブラウンの結婚」(’78)「リリー・マルレーン」(’81)を代表作に持つハンナ・シグラにも顕著に引き継がれ、窺がえるものでもあった。


嘆きの天使」「モロッコ」('30)「間諜X27」('31)「上海特急」('32)そして「天使」('37)といった作品を見ただけでも、それらは’30年代の映画特有の香気に溢れ、いずれもが作品としての力量を備え、何よりディートリッヒが“核”であった。

とまれマレーネ・ディートリッヒは、時代を撓うように駆け抜ける女の感性を表出して、たぐいまれなる永遠となったのである。
参考:「真実のマレーネ・ディートリッヒ」
   Where have all the flowers gone(花はどこへ行った)
   「狂恋」

<マレーネ・ディートリッヒ>Marlene Dietrich(1901.12.27〜1992.06.06)
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